原爆詩人・峠三吉(1917〜1953年)は、28歳の時、爆心地から3km離れた翠町の自宅で被爆。
戦後、青年運動・文化運動を通じ次第に平和運動の先頭に立つようになり、原爆反対、平和擁護を訴えた。
1950年、朝鮮戦争が始まり、占領軍による原爆反対運動への弾圧が激しさを増す中、トルーマン大統領の「朝鮮戦争に原爆使用もありうる」という声明に抗議し、結核で療養中の国立広島療養所で『原爆詩集』を書きあげ、1951年、ガリ版刷りで発行した。
『原爆詩集』は1951年のベルリンの世界青年学生平和祭に、日本の代表作品の一つとして送られ、世界的な反響を与えたが、1953年3月10日、峠は国立広島療養所でこの世を去った。享年36歳だった。
『原爆詩集』の『序』が刻まれたこの碑は、峠の没後10年という節目の年の8月6日、当時の広島市長・浜井信三をはじめ約300人に見守られながら除幕。設計は『原爆詩集』の表紙や挿絵を担当した四國五郎。